いつだっただろうか。相手が言った言葉もしっかりとは覚えていない。

それでも覚えていることがある。

「血縁にこだわりすぎじゃない?」

辱めを受けたと思った。怒り、羞恥、悲しみ、羨ましさが一気にこみ上げてきて臓物がすべて口から出そうになった。顔が熱くなって、言い訳が頭の中に浮かんでは消えてそれよりも目の前にいる相手をぶん殴って同じくらい辱めて殺してしまいたいと思った。 

「苗字とか、血縁とか、そういうものに執着しすぎだと思う」

「正直、あなたのの話を聞いていて引く」

幸せなんだなと思った。幸せな家に生まれて<こんなもの>に目を向けなくてすむくらい穏やかなところに生きているんだなと思った。それと同時にきっとそれが普通で、考えるのがおかしくて、それに縛られてることのほうがとてもおかしいことなんだろうなと思った。そしておかしいものはおかしいところで生きているべきで、そちら側と関わりあうことはつねに何かしらの妬ましさをもって生きるしかないのだろうな、と。

メルロ=ポンティは言っている

「ねたみは本質的に<自己と他人>との混同である」と。

どんなに頑張ってもそちら側にはいけないから常に混同して生きるしかない。だから、だからこそ、自己と他人をおかしいくらいに区別していないとすぐに混同してしまう。どんなに体が交わったとしても、精神は交われないし精神を重ねる必要はない。もとからまったく違う世界に立っているのだから。

そして気づいた!

自他の境界を求めているのは自分がすぐに自他を混同してしまうからだと。常に妬みを持っているから。血縁、家族、兄弟について疑問を持たなくてすむ人たちに対して。

 

疑問とは家族に対する不満とか、分かり合えなさとか、もっとあるそういう、そういうことじゃない。伝わるかわからないけど、ちがう。根本的な疑問だ。たまたま居合わせただけの人たちと血縁という妙な名前のものでつながっている意味、必要性、異様さ、気味の悪さ、頭のおかしさ、そういうものに気づいて、気づかされて、ぞっとするくらいどうしようもない居心地の悪さを毎日毎日感じているこちらがおかしいと言われる!このことだ。おかしいと言われなくてすむ、おかしいと言って許される側になりたい。これが妬みだ。どんなに楽しく生きても相手になりたい、相手が自分になってほしいという感情は消えない、全体的に妬みをもって生きているから。

メルロ=ポンティは素晴らしいよ、どう頑張っても表現できなかった恐ろしさを一瞬で言葉にしてくれた。自他の混同の恐ろしさにまったくの第三者からの文字で表現された瞬間に落ち着ける、すごいよ、とてもすごい。誰に伝えても通じないような感情(いつだって固有の感情は相手には伝わらない。伝わってしまったらそれは固有の感情ではなくなるから)がT-falのお湯が沸く音のようにぼこぼことわいて涙がでた。感動した。やっと言葉になったのだから!